こんにちは!
「ネクスト・トゥ・ノーマル」絶賛出演中でございます!
http://www.tohostage.com/ntn/
東京国際フォーラムで上演されていた「ドラキュラ」の千秋楽の2日後に初日という、怒濤の稽古スケジュールに一息ついたので、ブログを書いております!
さて、ネクスト・トゥ・ノーマルという作品は、ミュージカルのジャンルを一新も二新もするような作品です。
RENTと同じく、社会性があり、強いメッセージをもった作品として、ミュージカルとして13年ぶりにピューリッツァー賞を受賞しました。演出家もRENTと同じく、マイケル・グライフさんが手がけております。
この作品、僕の出来る範囲で解説してみようと思います。
日本版演出のローラから教えてもらったキャラクターのバックストーリーは深く、リアルです。
ネタバレもありますが、「未見の人はココでストップ!」と書きますので、とりあえずは安心して読み進めていただいてOKです。
ネタバレなし解説は抽象的に、ネタバレあり解説は具体的にいっちゃいます。
・・・・・・・・・・・・・ネタバレなし編・・・・・・・・・・・・
ミュージカルとして初めて、「双極性障害(躁鬱病)」や「統合失調症(精神分裂症)」といった難題をあつかった作品です。
ネクスト・トゥ・ノーマルの素晴らしさは、楽曲、ステージング、セット、演出、どこをとっても見所・聞き所満載なのはいうまでもありません。09年のトニー賞で楽曲賞・主演女優賞・編曲賞を受賞した上に、その年のピューリッツアー演劇賞までもをかっさらっています。
VIDEO
でも、今日このブログに書きたいことは、ネクスト・トゥ・ノーマルという作品のベースにあるものです。楽曲、ステージング、セット、演出は作品をご観劇いただいた人には知ってもらうことができますが、作品の根底にあるものは、もっと深く、上記の全てのルーツになっています。
個人的な解釈、経験から綴る内容も多いですが、僕にとってのネクスト・トゥ・ノーマルは、次のようなお話です。
ネクスト・トゥ・ノーマルの根底は、家族、愛、生きることであり、家族をもち、誰かを愛したことがあり、人生を生きることを選んだことのある人であれば、誰もがこの作品を愛することができると思います。
日本では(アメリカも)社会の理解が少ない精神疾患ですが、ネクスト・トゥ・ノーマルでは、双極性障害と統合失調症を「観客が主観的に体験できるように」舞台機構を巧みに扱って表現しており、感情移入できるようになっているところが画期的であります。でも、ネクスト・トゥ・ノーマルという作品のすごいところは、それを全く感じさせない、押し付けないところだと思います。演出は、たくみに舞台機構を駆使し、音楽と照明、衣装にのせて観客をダイアナ視点でストーリーに引きずり込みます。そのため、作中明かされる真実は衝撃的であり、脳・心をゆさぶられるのです。
精神疾患に対しては、一般的に偏見が多いといわれますが、最近、それが実はただの無知なのかもしれないと、強く思うようになってきました。
ツィッターにも書きましたが、なぜなら、肉体の健康維持は社会にもいいやすい(「ジムいってる」「ダイエットしてる」)のに対して、精神の健康維持はなぜかタブーになっています(「セラピーにいってる」「抗鬱剤飲んでる」)でも、体の健康と心の健康、どちらが大事なのか、いわずもがななのは自明です。心の健康を、社会がないがしろにしてきたツケが現代の社会の闇の部分であるのかもしれません。
アメリカでは、精神の健康維持は日本よりいいやすい風潮があります。と同時に、諸製薬会社の強力な働きかけがあり、抗鬱剤などは求めやすく、過剰に処方されるきらいがあり、それに対する提言もN2Nには含まれています。
(「精神薬理学者と私 (My Psychopharmacologist and I)」という曲では、サウンドオブミュージックのパロディーで、「これが私のお気に入り」というメロディーに、アメリカ人になじみ深いお薬の名前が羅列されていて、ユーモアがありますね。)
話を戻します。
作中、いわゆる精神疾患にかかった人にとって、セラピーや薬は「回復したい」という「選択」、ということがよく話されます。
どういうこと?って、僕は思いました。
(リサーチをしたり、日本版演出のローラとお話をしたり、個人の経験も交えた僕の見方ですが、以下、少し説明します。
精神疾患を一括りにはできないし、いろいろな状況がありえるので、ただの一例と思って読んでいただけるとうれしいです。)
精神疾患に苦しむ人を友人、家族、あるいは恋人にもった人が必ず直面すること、それはつまり、精神疾患から回復するためにあたり、苦しんでいる「本人」が「回復」を選択しなければならない、ということです。
つまり、まわりにいる人はサポート体制を作ることはできても、最後の一歩は一人で歩かなければならない。
愛する人が精神疾患に悩む人は、自信の無力さに気づきます。そして、無力であることが自分のせいにしまいがちです。あるいは、「回復」を選択してくれない相手を攻めます。なぜサポートしている自分を愛してくれてないのか、と感じることもあります。N2Nでは、10年以上もダイアナ(母)を支え続け、自身を捧げ続けた人間として、ダン(父)がいます。
「選択」というのは、少し考えると、それは「回復」には不可欠だということがわかります。
精神疾患をわずらっている本人が、それを認識し、能動的に、回復する選択を自分でする必要がある。逆に、本人がそれを拒んだ状態だと、何をやっても回復が見込めないということです。
すると、社会が問うべき質問は、「ある人に心の病があるのかないのか」、ではなく、「『回復・生きること』を選択したのかしていないのか」、ということ。人が人に与えられる理解、手助け、愛は、シンプルに、その思考へのシフトじゃないかな、と思っています。社会は精神疾患を否定するのではなく、回復への選択・努力・苦しみ全てを歓迎すべきなのです!
ダイアナ(母)自身の力で「回復」を選択する必要があるのです。
作中、ダイアナが「回復」を選択する大きな瞬間がいくつかあります。でも、それが一筋縄ではいきません。回りの家族、恋人に大きくまた、影響を与えます。生き甲斐にしていたものを失って崩れる関係があり、空いた穴を埋めるために状況が変わっていきます。
なぜそうなるのか、それは、「コントロール」を手放すからだといいます。精神疾患をもつ彼女にとって、さまざまな症状は自身の環境をコントロールできるものであり、逆にいえば「回復=そのコントロールを手放す」ということになります。(もうN2Nをご覧になった人であれば、なにがダイアナにとって「コントロール」をもたらす存在なのかは、お分かりですね。)
(「コントロール」の例をあげると、例えば、極限レベルのストレスを感じている人が、拒食症に陥ることがあるかもしれません。それは、回りの環境のコントロールが効かない中、唯一自分の食べる物はコントロールできる。そこに安心感を感じてしまいます。そこに、「痩せたね」「きれいになった」などと回りから褒められようものなら、体に対するイメージとともに脳内でその回路は増幅され、いよいよ抜け出せなくなってしまいます。)
「コントロール」をもたらしているものが、実は回復をさまたげているということを認識することが、回復には必要不可欠です。しかし、簡単に「手放す」ことなどできないのです。ダイアナにとって、「それ」を手放すことは、生きる意味を失うことに等しい。そこを、家族がサポートをし、彼女を助けようとしている。家族の物語、家族の愛、回復への道、これが、N2Nの根底にあるのだと思っています。
ところで、こんな重いテーマのようで、ネクスト・トゥ・ノーマルは出だしから痛烈な自虐ユーモアを加えて軽快に話のベースがしかれます。そこが、アメリカらしくあり、ほっとさせてくれるところがあります。(正直、ユーモアが日本語では伝わってない部分もありますが。。 僕がアメリカで観劇したときに会場が爆笑するような台詞が、日本では僕一人だけ笑っているところも多いです。でも、それは文化の違い、感覚の違い(例えばマリファナ)だったりするので、仕方ないかもしれません。そこを、キャスト・スタッフはなるべく明解にしようとして頑張っているので、観察してみちゃってください!)でも、なぜこれほどユーモアがふんだんなのか、それは人間であれば誰もがクレイジーな面をもっていて、少なからず似たような状況を経験したことがあるからなのかもしれませんね。あなたは、クレイジー?Who’s Crazy?
さて、以下より、ネタバレに入っちゃいます!
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あんまり細かく書くのも、解釈の余地とかを残すことも大事なので、要所だけ。。。
まず、作品中、衣装、照明、セットで顕著な色の使い方ですが、それぞれの色には大まかに意味がふりわけられています。
青=ノーマル
赤=クレイジー
赤+青=紫=next to normal
黒=弔い、死
白=ノーマル
といった具合です。
たぶんお話の中で、ややこしくなるのが二幕の後半だと思うのですが、なぜダイアナがでていく必要があったのか、なぜダンにゲイブが見えたのか、とか。
日本版演出のローラとお話をした上での、ゲイブの存在理由。(もちろん、これはN2N作中の解釈であり、精神疾患に対する治療の善し悪しをいえるものではありません。日本では、二ヶ月以上続く悲しみは薬で治療する必要があるというガイドラインがあるそうです。)
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17年前、生後8ヶ月のゲイブを失ったダイアナは、悲しみが続き、精神科医にかかったところ「4ヶ月以上続く悲しみは病気であり、薬で治療する必要があります」と告げられる。
ダイアナはゲイブを失った悲しみ、喪失感を一人の力で処理しきる前に、薬漬けにされ、感情を感じなくさせられる。
失ったゲイブの代わりを生むために、二人目の子どもを作る決心をする。ところが、生まれたのは女の子(ナタリー)であったため、ダイアナは悲しみを昇華する対象としてナタリーを愛することができない(「彼女(ナタリー)は知っています。あの子を生むことにした訳は。私は彼女を病院で抱くことができなかった。」)。
覆いかぶさる悲しみに、双極性障害の治療のためにダイアナはますます薬漬けにされ、悲しみの種と向き合わずに、感情にふたをし続ける。
ある日、その押さえられ、処理されなかった悲しみのはけ口として、幻覚症状が現れ、ゲイブがダイアナに見えはじめる。ダイアナは統合失調症を発病。
ダイアナはゲイブの幻覚に酔い、心地よさを見いだし、彼を完璧な息子像にしたてあげ、恋人のように接し、この一種の中毒状態から抜け出せなくなってしまう。
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精神薬理学者と私 (My Psychopharmacologist and I)ー
ゲイブがみえている幻覚症状を治療する為に、ますますダイアナは薬漬けにされます。
「セックスをする意欲が全くないんです」という台詞。これはアメリカでよく語られる抗鬱剤の副作用にかけたジョークですね。
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I Miss the Mountainー山の起伏を双極性障害の起伏に例えている歌。薬浸けにされて感情を感じられなくなったダイアナが、感情が豊かだった時代を懐かしむ。「精神薬理学者と私 (My Psychopharmacologist and I)」のダンの歌詞でも、「若々しく愛した、生き生きした妻を」の「生き生き」は英語では”She was wicked and wired”、つまり若い頃からダイアナは感情の起伏の激しい(wired)女の子だったことを歌っています。
ダンは感情の起伏が元々激しかったダイアナを愛し、ダイアナが統合失調症を発病した後、さらに献身的に彼女に自身の生きる意味をささげて、彼女のためにつくす。ダン自身がどのようにゲイブを失った悲しみと向き合ったのかは、作品中まだ触れられていない。
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ダイアナ、自殺未遂。
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ECT (電気けいれん療法)を受ける。
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記憶喪失。
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家族と記憶を辿る。何かが思い出せない。
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オルゴールを発見。
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ゲイブを思い出す。
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I’m Alive (Reprise)ー幻覚が再び見える。
この時、ダイアナは初めて、回復への道のりを妨げるもの
として、ゲイブをみます。「回復」を「選択」したダイアナは、ゲイブの幻覚の心地よさに酔うことは、家族を崩壊に導き、自身の命をも奪いうるものだと認識する。これは、初めてダイアナがゲイブを離れようとする瞬間です。
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Dr.マッデンに会うが、追加治療を拒む。ダイアナにとっては、薬やECTを使った対症療法ではなく、症状の根本原因、17年前に向き合わなかった喪失感、悲しみと向かい合う必要があることを、Dr.マッデンに伝える。
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So Anyway(とにかくでていく)ーダイアナとダンがリビングで二人。ダイアナはダンに、17年間ふさぎこんでいた悲しみと
向き合わないといけない、そのためには家にはいられないことを伝える。ダイアナとダンの相互依存を断つためにも、幻覚が見えてしまう家を離れるためにも、ダイアナはそれをダンに伝える。
ダイアナが、去る。
家にはダン一人。ダンは、ダイアナがでていったことによって、17年間ダイアナに捧げて生きていた意味を失う。初めて、自分自身がゲイブを失った悲しみと向き合っていなかったという現実が降り掛かる。その瞬間、ゲイブが見える。
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Light(エンディング)
この曲がなぜ「光」なのか、僕なりの解釈ですが、そこには「回復」を「選択」した人たちの物語があるからだと思います。
ナタリーにとって、例え母が家をでても、それは回復を選んだ為に必要な一歩。そこには光がある。
ダンはDr.マッデンと会っている。「誰かを紹介しましょうか。あなたを診てくれる人を」。ダンも初めて自分の悲しみと向き合う「選択」をする。光。
ゲイブ「夜が明けていく。なぜこんなに長く、彷徨っていたのか不思議だ。光が世界を新しくみせる」。ゲイブはダイアナとダンが共有する思い出であり幻覚であることを考えると、誰の言葉なのか、想像をはせながらきくと、意味が広がりますね。光。
エンディングでナタリーが初めて誕生日を祝ってもらう瞬間。「それをゲイブも上からみつめて」とローラとドンティにいわれました。演出の中で一番好きな箇所かもしれません。
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深い作品なだけに、違った解釈の余地はいくらでもあると思います。
それから、自身でみて発見することの楽しみというのも、舞台観劇の醍醐味だったりしますね。
以上、さらっとですが、僕なりに解説してみました!
まだ29日まで日比谷シアタークリエで上演しております。ぜひ、みにいらしてください!兵庫公演は10/4~6です。